ざっくにちは(っ´ω`c) リライト2022.11.17
今回は「赦し(許し)」や「煩悩(欲望や恨みなど)」について勝手に綴ってゆきます。
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ではスタートぉ~…▼
まず煩悩について。ぼんのうと読み日本では108の煩悩などと称されます。
108といえば除夜の鐘が打ち鳴らされる回数でもあり、煩悩とは欲望に限定せず、それ以外の煩わしい心の動きだと思います。
以前、仏教徒であったときに色々と学びました。
人は煩悩に苛まれると、判断を誤ることが多いです。特に三大欲求と呼ばれる
「睡眠欲」
「食欲」
「性欲」
に関すると物凄まじい煩わしさ、囚われをもたらします。時に殺意や憎しみ恨み怒りなど、どちらかというとネガティブな心の反応、こころそのものを指すようです。
こわいものです。
僕の場合は欲にフォーカスすると「睡眠」に関してもそうですが、
「食」と「性」の欲が強いです。
食欲に関しては非嘔吐過食という病気の実態もあり、自分でのコントロールが非常に難しいところです。
性欲に関しては、「自己嫌悪」に陥ることが毎度です。ザクは親のすねをかじって暮らしているパラサイト独身男性ですので、爆発しないように自身を慰める事しか出来ません。
情けない限りです。
しかし情けない、自己嫌悪、などと言うのには次のような訳もあります。それは
「女性を性的な対象としてみてしまう」
というものです。
よく考えてみればどちらもどっちで、女性が男性を性の対象としてみることもあると思われます。
以前ある方に聴いたのですが、
「女性にも性欲はある」と。
ただ、このように人を性の対象としてみてしまうことが、僕には気持ち悪く、イヤらしいことで、自分は汚らわしい存在だ、と強く感じられ苦しいのです。
そんな中、友人の言葉に助けられました。
「そうした感情に煩わされることがあっても、そんな自分を受け容れてあげられたら良いですね」と。
とても有難かったです🙇♂
そこで次のように思考しました。
- 悪を持っている自身を赦せるのか?
- 自分を赦すとは自分を受け容れることなのか?
- 他人の悪は赦せるのか?
- 赦せたら怒りから解放されるのでは?
- 他人を赦すことで神に赦されるのか?
- 他人を赦せたら他人から赦されるのか?
- 赦しが恨みから自分を救うのか?
最後の項目は大愚和尚さんの動画を拝見した時に思ったことです。
YouTuberで和尚な方で、仏教徒に成ったときから観ていました。キリスト教徒になってからは観るのを控えていましたが、この際、構うもんかと思い拝見しました。
仏教では赦しではなく「許し」という漢字であらわします。根本的な心の動きとしては変わらないんじゃないか?と思います。
もっと自他共に赦してゆこうと思えました。
キリスト教徒としての祈りの点から観て、友人が先輩クリスチャンに聴いて下さいまして、
「こういう〇〇な自分が嫌です」
「こんな事をしてしまいました」
のように祈れば、受け止めてもらえるそうです。というわけで実践!
実際祈ってみて、確かに、と感じました。手応え在りです。本当に感謝です🙇♀
仏教徒ではありませんが、ゴータマ・シッダールタという実在の人物の知恵を識ることは為になると思います。なので「ブッダとして崇めるのではなく拝見した」わけです。
偶像崇拝は禁じられていますから。
他にも挙げた中で、
「自分は赦せるのか?」とありますが、毎日祈りつつ進めば、いずれはこんな醜悪な自分をも受け容れることも出来るほどに、赦せるようになるのだと感じています。
自分の中からいくら悪を排除しても、悪はいなくならない…その様に思います。
諦念、というわけではなく、人は善と悪そしてその間の諸々の心の動きを抱えて生きているのかなぁ、と思わざるを得ないのです。
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今回も最後まで御覧頂きまして、誠にありがとうございました。
ほんの少しずつ記事を増やしていきますので、どうかよろしくお願いいたします。