雑記ぃド byザクχ

重病人でプラモや本好きな拙者の雑記ブログでござぃ(´っ・ω・)っ

支える人と支えられる人

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ざっく~(´・ω・`)b リライト2022.3.9

今回は「支える人と支えられる人」というテーマで綴ります。

 

まず、支える人と支えられる人って何でしょうか。私はこう思います。「全人類が誰かに支えられていて、また誰かを支えている存在なのではないか」と。

但し、支え方が間違っていたり、はたまた、支えられる事が当たり前のように感じてしまっている人も多いのではないか、とも思います。

冒頭で述べた「全人類が~」と、なぜ思うのか。それは人という存在は、傷付けたり傷付けられたりしながらも、どこかで誰かの支えになっていると思うし、見えないもので支えられていると感じるからです。

人は生まれる時、母親が独りで産んでも、そこに母と子の繋がりがあるのだと思います。 

生まれる時も死んでゆく時も人は独りである」って意見を、私はよく聴いてきました。確かに孤独死も多い昨今です。然し、本当に独りでしょうか。私はその一面的な見方に憂いと懸念を感じます。人が死んでゆく時の物理的な側面しか観ていないのではないかと。そこで心に目をやると、そこで死にゆく人、一人ひとりのこころ、或いは魂や霊のようなものに繋がりが在るように、見えないけれどあるものを感じ取れます。人は絆で繋がっています。生涯に渡り、誰にも頼らずに生きてきた人など一人も居ません(少なくとも私はそう思います)。そして世から打ち捨てられた様な人々でも、どこかに関わっていた人がいて、そして必ずその人達のこころに、存在(名前や感情)を刻んだり残したはずです。

その絆はこの世界の何処かにいる誰かと繋がっています。

順番が前後しましたが、「生まれる時」もです。こちらの方が物理的な側面からも見えるので、理解しやすいと思います。母と子の絆は、きっと亡くなっても消えません。

 

先に「~この世界の何処かにいる誰かと繋がっています」と述べましたが、縁を切った人とも、そうした意味では、千切れそうになっていても絆は在るはずと私は思います。確実に人生に影響を及ぼし、記憶に残っているはずだからです。諸事情から嫌な心持ちにより縁を切ったとしても、感情を動かされた事は事実です。それに何も益がないわけではない。「百害あって一利無し」などと侮蔑する言葉もありますが、それは白黒思考であると感じます。百か零か、すべて誰かが言ったから、自らもその人は悪だと思えるからといって神様ではないのだし、簡単に断罪できないのです。決め付けや思い込みは怖いです。常に1か0かで考えるのは危険です。感情が昂ぶるとそうなってしまうこともあるとは思います。

だからと言って「再び縁を取り戻す必要はない」とも思います。

相性が悪ければ出来るだけ離れて、優先順位を下げれば良いのではないでしょうか。そこで順位が上がってきた人達こそ、大切にするべき人達なのだと私は考えます。

前述の「支え方が間違っていたり、はたまた、支えられる事が当たり前のように感じてしまっている人も多いのでは」とありますが、相手を依存させてしまい堕落させてしまったり、支えられる事は当たり前ではないのに、感謝を忘れてしまったり

 

ちょっと立ち止まって考えてみるのも良いかなと思いました。

ちなみにキリスト教ではEMMANUEL(インマヌエル=神はいつも共に在り)って言葉があります。「イスラエル」とか「エルサレム」などこの3つには『エル』が付いてますが『神』と言う意味です。日本だと、どんな物についていますかね。今は神隠しと神風しか思い浮かばない語彙が貧困なザクでした。

 

ここまで御覧になっていただきまして、感謝します。有難う御座います<(_ _)>

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