ざっく~(+o+)
この記事は読んでいて気分が悪くなるかもしれません。そういうのは受け入れられないな、って方々はご注意下さいませ。
さて、その瞬間になったら怖いかもしれない。しかし、もう怖くないんです。死ぬことが。救われる(天の御国にいける)かどうか疑うことは無くなってきたし、そう云いつつも、起きてから、時間が経つ(夜が近づく)につれて、精神状態はドンドン悪化。嫌なことを思い出しては心臓がドキドキと高鳴る。あの嫌な感情と共に。生きるのが苦しい・辛いと思い、それでも生きようと懸命に努力しています。ゲームだって気晴らしになるからするし、過食症にたいして主治医は「低カロリーなものをゆっくりよく噛んで食べよ」とアドバイスした。食べた時点で心は暗転するというのに。食べることに罪悪を感じるから。この星で最もクズな存在である自分にも、使命があって生まれてきたのだと学んだからこそ、「人の役に立とう」とできることをしています。それは多岐にわたるので詳述しません。これ以上クズにならないように気を付けて生きようと思います。
親の脛をかじって生きてるだけではないようにしようとしています。誰にも相談できない性格。というより、夜間に心調が悪くなると相談できる相手なんていないんです。それにそもそも愚痴を吐く気はありません。脳に悪い事が解ってますから。それでも親には随分心配をかけてしまい、それは今もかもしれません(これまで心配をかけたのは嫌なことが山の様にあったからです)。そんな中、している努力を綴っておきます。令和3年の10月頃はこんなことをしていたのかと、あとでハッキリさせるために。
A .自律訓練療法
B .瞑想(一日20分)
C .散歩やゲームで気分転換
D .最大の安らぎ、読書
E .筋トレ
特.信仰
昨夜の地震、とても振動しました。けれどもう恐怖は感じませんでした。
「終わるなら終われ、こんな人生」こう思ったのが事実です。なぜなら夜も遅かった。そして心調は当然悪かったからです。
同じように感じている方々、いらっしゃるのではないでしょうか?
常識を語り、騙り、説明責任を放棄する狡賢い者達に言わせれば
「生きたくても生きられない人達がいるんだ」
そんなセリフが聞こえてきそうです。笑わせないでもらいたい。一人ひとりの人生すべて別案件です。まったく事情も異なれば、当然、私の話は他の生きられない人の話とは別の話ですよ。「生きられない人がいるから生きろ」というのはただの「言葉の暴力」です。なぜなら「辛さや苦しさを無視して生きろ」と言うに等しいからです。しかし、生きられない人が生きられず感じなかったこの私の苦痛は、私のモノであり、他者のモノではなく、事実苦しいからです。無視しようとしても感じる痛み。誰かの話をこじつけて人を支配しようとするなど許されるはずがありません。
誰も人を助けることなどできない。ですが、少しヒントを与えることはできます。
そして何より神様には人が救えます。本当に信じた人だけ。
信仰は一日にしてならず。努力の結果も一日にしてならず。
「生きたくても云々」の話は私がとても嫌いなセリフですので、思い出し過剰反応したんでしょう。読んでいて苦痛に感じた方もいらしたと思います。すみませんでした。
最後までお読みいただきありがとうございます。