雑記ぃド byザクχ

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詩の世界に魅せられつつある今

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詩の世界に魅せられつつある今を綴る。

ざっく~(´っ・ω・)っズッザーーーっ❕❕❕ リライト2022.9.12

こんにちは(^^♪

今回はタイトル通り、詩の世界に魅せられて、そんな感じで綴ってゆきます。

金子みすゞさんや、坂村真民さんや、水野源三さんのことを書いてみますね。

 

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それでは、はじめましょうか🍵

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以前より、金子みすゞさんの詩集を読むことがよくありました。

母の所蔵していた本だったんですが、「あばら家が銀の御殿に見えるように・・・」と書かれた詩がこころに残っています。

詳しく書くと、作中の寝ている坊やの為に、家が銀の御殿にみえるように月が照らしてる、、、みたいな詩でした。いまいちど調べてみましょう。

http://zip2000.server-shared.com/kenekomisuzu.htm

こちらに沢山、金子さんの詩が掲載されておりましたので、引用させて頂きます。

「月のひかり」
(一)
月のひかりはお屋根から、
明るい街をのぞきます。

なにも知らない人たちは、
ひるまのやうにたのしげに、
明るい街をあるきます。

月のひかりはそれを見て、
そつとためいきついてから、
誰も貰わぬ、たくさんの、
影を瓦にすててます。

それを知らない人たちは、
あかりの川のまちすぢを、
魚のやうに、とほります。
 ひと足ごとに、濃く、うすく、
 伸びてはちぢむ、気まぐれな、
 電燈のかげを曳きながら。

(二)
月のひかりはみつけます、
暗いさみしい裏町を。

いそいでさつと飛び込んで、
そこのまづしいみなし児が、
おどろいて眼をあげたとき、
その眼のなかへもはいります。
 ちつとも痛くないやうに、
 そして、そこらの破屋(あばらや)が、
 銀の、御殿にみえるよに。

子供はやがてねむつても、
月のひかりは夜あけまで、
しづかにそこに佇(た)つてます。
 こはれ荷ぐるま、やぶれ傘、
 一本はえた草にまで、
 かはらぬ影をやりながら。

なんともいえぬ優しい詩ですね。とても真似できません。詩の世界に魅せられて「書きたいな」などと思うのですが、とてもじゃないですが無理なんじゃなかろうか、と思ってSTOPしてしまいます。最初からうまく書ける人なんていないのは解っているけれど、あまりにも高度な世界に気持ちが萎えてしまいます。以前少し書いた事がありましたが、酷い有り様でした。誰も読んでくれなかったと思います。そんなもんですよね・・・

「月のひかり」に戻ってやっぱりこの月の持つイメージ、優しい光、子供を見守って佇む擬人化された月が、やっぱり好きです。僕の大好きな詩です。詩といったら僕はこれを一番に選びたい!

それになぜか僕は月と名の付くものに縁があるのか、音楽の世界でもドビュッシーの「月の光」とか、ベートーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」や、清春さんのロック音楽「missmoonlight」など好きな曲がたくさんあります。更に僕が太陽よりも月が好きなのはなんでか知りませんが、月にはなにかよくわからない、不思議な力を感じます。別に拝んでるわけではないですよ(笑)

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それでは次に「坂村真民さん」の詩を観ていきましょう。

僕の持っている本は、以前入所していた施設の一階にある本屋さんでじっくり選んで買ったと思います。タイトルは「坂村真民 一日一言」です。

この中で好きな詩はたくさんありますが、今回は、、、

この著作の中の1月29日の詩「新月」を紹介しますね。

以下、本より引用

新月

老い込んでは駄目

心が老い込んだら

体も老い込んでしまう

詩人は常に

新月のようにあれ

上記新月の箇所 2022.9.12修正 体も追い⇒体も老い

「詩人は常に新月のように」とあります。

新月のように若々しく、心を輝かせていなさい、ということでしょうか。

身体も老い込まないように、溌溂としていたいですね。

特に「詩人」の風下でも目指すのならば、新月のようでありたいと思います。

月は良いですよねぇ・・・

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さぁ、本日のラストは「水野源三さん」でいきましょう!

キリスト教の会報誌「聖潮(せいちょう)」から、この方を知りました。

とても気付かせてくれる詩なので紹介します。

以下、引用します。

「私がいる」

ナザレのイエス

十字架にかけよと

要求した人

許可した人

執行した人

それらの人の中に

私がいる

今月、9月号の聖潮にはいろいろ書いてありますが、これを載せたのは現在九十九里みぎわ教会で活躍中の「小寺隆牧師」です。

小寺隆牧師は、最後にこう書いています。

以下、聖潮の記事中よりの一部引用です。

(イエスが十字架で原罪を贖った)働きが徒労に終わらないためにも、

まず赦すこと、愛することです。

そうすることでしか、わたしたちは本当の意味で自分が赦されること

のありがたさに気づくことはできません。

受けるより与えることが幸いであるのと同じです。

最近、とくに思うのはやはり赦す(ゆるす)ことでしか、暗い過去と訣別できないし、和解したり、新たな歩みを始める事はできないのかな、ということです。

自分に害をなした人々を赦すのは難しいことですが、それでも他人を赦し、愛して生きていけたらな、と深く思います。そうする中で、少しずつ人格者になってゆけるような気がします。本当に難しいことですが、祈りつつ努力してみる価値はあると思います。

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今回はここまでです。

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今日もここまで読んでいただきまして、誠に感謝いたします。

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